GOENプランニング ノッツェ高知サロン
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今回は私と彼の結婚式、そして披露宴についてお話しましょう。私は22歳の春、昭和59年4月22日に彼と結婚式をしました。 結婚前夜も母の帰りは遅く、私は東京から帰ってきた弟、そして父とすき焼きを作って食べました。ドラマでもよくあるシーンで、両親に「お世話になりました」とまじめに言わなければいけないと 考えていましたが、なかなか話せませんでした。
翌朝、「お父さんに、ありがとうぐらいちゃんと言って出なさいよ。」といってそそくさと出かけた母。散髪に行かなければと出かけた弟。残された父と私。まもなく迎えのタクシーに乗る直前に、玄関先で胸の奥からムリヤリ押し上げるかの様に出た言葉。
「お父さん、ありがとう」
精一杯の私の言葉を振り切るように、父はタクシーに飛び乗りました。
ホテルでの控え室、緊張で何度もトイレへ行く私を気づかい、美容室の先生は「お身内の方から着付けをいたしましょう。」と言ってくださいました。その間も緊張はとけず、さらに何度もトイレに行きましたが、 ついに自分の番がやってきました。「さあ。由美ちゃんの番やねー。」あっという間に着付けされていく私を母が見ています。私の顔をじっと見つめています。目頭がジンと熱くなりました。これはいけないと、なるだけ母の顔を 見ないようにした自分を今も憶えています。
衣裳店の娘ということもあり、写真の前撮りも通常の倍以上の時間をかけ、たくさんの衣裳を着用し、心の準備はできているはずだと思っていましたが、この緊張感はいったいなんだろうと自分でも不思議でした。
まもなく挙式とのことで移動。扉が開き、彼と、それから初めて会う彼の親族を目の前にすると、私のそれまでの緊張感がサァーッと降りるのを感じました。地に足がついたというか、ひとつひとつの物事がしっかり目に入る、 聞こえる、話せる、感じているということに気が付きました。しかし彼は、式のあいだ落ちついていた私とは正反対に、かなり緊張して手に汗をびっしりとかいていました。
披露宴もまったく同じで、私はすべてのお客様の顔をゆっくりと見ることができました。むしろキョロキョロしないように、自分の目線にかなり気をつけたくらいです。
この披露宴のあいだ、高砂の席で私が口にしたものは、いちごだけ、彼はお刺身だけでした。司会者の方のすすめで唯一食べることができたものでした。
披露宴は、列席者の方には滞りなく厳粛に華やかにすすんだように見えたと思います。
さて、今私は躊躇しています。その後の事を話すべきであろうと思う心と、ちょっとやめとけという心が胸の中で戦っています。 私の現在の立場からいえば、やはり業界へ対する内部批判のようなものは言うべきことではないのではないかという気持ちもあります。しかし、私がブライダルコーディネーターという仕事を選択した理由を説明するには、やはり書いておくべきでしょう。
お客様には気づかれる事なく、問題なく行われたかのような私達の披露宴。しかし当事者であった私自身は、披露宴のさ中、一人頭の中で「なにこれー」「ひどい」と、腹が立ったり呆れたりで、醒めていた自分を思いだします。
打ち合わせで頼んでいた、ごくごくあたり前の事が、なぜできなかったのか。一番盛り上がるこのシーンを、なぜもっと大切にしてもらえなかったのか。ビデオを見ても私は「こんなつもりじゃなかったのに・・・!!」と、自分の頭の中で描いていたイメージとは全く違う結果にあぜんとしたことでした。もちろん、それら口に出さなかったクレーム以外は、問題はありませんでしたが、心に残るのは、今となってもそのはがゆさだけ。 良かった事は忘れられるが、悪かった事はいつまでも心に残る。これが人間の本質なのだから、仕方がないのでしょうか。
私の母の商売がらみや、彼の親戚が勤めているというしがらみもあり、口に出せなかったクレームを、15年を過ぎ、はじめて明かしました。
しかしきっとこの経験があったからこそ、今私はブライダルコーディネーターという仕事を選択しているのではないかと思います。
あのときの私のような想いを、あなたにはしてほしくないのです。
3回にわたって、私のこれまでの事を話してまいりましたが、いよいよこれから、ブライダル成功の秘訣のページになっていきます。私なりの考えや、現場での実体験もまじえたものにしていきます。ご参考にしていただければ幸いです。お楽しみに!
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