GOENプランニング ノッツェ高知サロン
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2002年2月2日午後6時、祖父が遂にこの世から去ってしまいました。享年89歳でした。あれからもう25日も経ってしまい、悲しみや寂しさも少しずつ癒されている今日ですが、いろいろな事を少しずつ思い出しながら書いてみたいと思います。
祖父を実家有安の家に両親が引き取り、面倒を見始めたのが今から17年前頃からでした。母に男の兄弟はいましたが、長男は今で言うバツ一、廃業、その上病気のため祖父を引き取り面倒を見るということは到底不可能でしたし、次男は横浜在住しかも転勤族の為、単身赴任も多く、ふたりとも年老いてきた祖父の世話ができる環境ではありませんでした。そうなれば嫁いでいるとはいえど、娘である母とその夫の父が祖父の面倒をみることとなり、介護される祖父の晩年がありました。
その間私の離婚により実家に身を寄せ、一つ屋根の下に四人で暮らした2年6ヶ月もありましたが、私が独立後の3年と6ヶ月間、父と母は事業をしながらもよく祖父の面倒をみたと思います。母がいない昼は父が祖父の食事の世話をしたり、時には下の世話もしたり、今思えば私はそんな両親を支えることがあまり出来ていなかったように思います。
自分で言うのもなんですが、仕事に燃えていた私は本当のところを言うと祖父のことはあまり頭になかったように思います。入退院を繰り返す頃からはさすがに病院に通うようにはなりましたが、もう少し元気な内に構ってあげていたら良かったなぁ~と後悔をしています。
が、葬儀の際お世話になった高知県中小企業家同友会員である(有)おかざき葬儀社さんの岡崎道さんからは「ご家族の絆や関わりがたくさんお有りになられた事が大変忍ばれますよ」と慰めの言葉を頂き、無念さが少しは楽になりました。
お通夜や母が喪主となっての告別式など、何から何まで本当にお世話になりましたが、冠婚葬祭(*1)という点では私共婚礼事業と同種ではあるものの、全く葬儀に関しては無知であったと気が付きました。
それでこれも勉強です。お葬式の流れや意味についてもう一度岡崎さんにお教えいただきました。
病院で死亡し自宅に遺体を運びました。家族だけで行われる最初の夜“夜とぎ”をしました。翌日近所の方々がお見送りして下さる中、お通夜をする為の葬儀場へ“出棺”しました。一般の方にも夜お別れをしてもらう為の“お通夜”では神職さんにより“御霊移し”という遺体から御霊を移すという儀式がありました。部屋の電気がパッと消え、一瞬何事が起きたのか?とビックリしたことでしたが、神式では御霊が移りやすいよう部屋の電気を消すのだとのことでした。
告別式ではこの世からあの世へ心安らかにお旅立ち下さい・・・という御霊を鎮める祝詞や、玉串を奉てんしながら祈りも捧げました。これは亡くなった人にも自覚してもらうことと、大切な肉親を失った家族がとても辛くて認めたくはないけれど、しっかりと死を認め癒しのきっかけになる“別れの場”や、社葬の場合などは“晴れの場”とも言えるのだそうです。
孫の中で一番年上の私が“献灯の儀”というセレモニーをすることになり、祭壇にロウソクの火を灯しました。あの世に行くために足下を照らす火の意味だそうです。人の心を慰め穏やかで優しい気持ちになる花を捧げる“献花の儀”は東京から帰高してきた従兄弟が行いました。
私共社長が喪主であったということもあり、告別式を知った関係者の皆様をはじめたくさんの方々がお悔やみにお越し下さいました。心よりお礼申し上げます。
祖父の祭壇には両親が毎日いろいろなお供え物をしているようです。一緒にいた人がいなくなった寂しさを癒す薬は『時』しかないと思っていましたがそれだけではないのだと岡崎さんから後日頂いたメールで知りました。
「〈共に学ぶのは二倍の喜び、共に苦しむのは半分の苦しみ〉とはドイツの古い諺ですが、〈空虚〉で〈孤独〉なご遺族の苦悩を〈癒す〉とき、故人との思い出話、そして同じ体験をされ、克服された方達が最高の〈お薬〉だそうです。
もちろん、娘さんであるあなたの支えはご両親にとって最上のお薬だと思います。」
と、ありました。
そして次のような素敵な詩も送って下さいました。
喜びが集まるよりも、悲しみが集まる方が
「幸せ」に近いような気がする。
強いものが集まるより、弱いものが集まる方が
「信実」に近いような気がする。
幸せが集まるよりも、不幸せが集まる方が
「愛に」近いような気がする。
喪失とは、幸せとは何か?信実の愛とは何か?を考えさせてくれるきっかけになる実は有り難い悲しみなのかもしれない。
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